【良い先生とは】海外生活で考えた「良い先生」「良い教育」とは

先生と授業

こんにちは!今回は、良い先生、良い教育とは一体なにか、個人的な考えを発信したいと思います。

東南アジアを放浪していて、適当でいいじゃん!!なんでもいいじゃん!やりたいことやったらいいじゃん!と思うことが多くありました。いま、日本の学校教育はそういったあり方を許容するようになっていません

そこで改めて「良い教育」「良い先生」について考えてみたいと思ったので、以下で書いていこうと思います。

この内容は個人的な考えを含みますので、異論は大いにあるかと思います。以上、納得の上で以下をお読みいただければと思います。

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目次:良い先生、良い教育とはなにか

教育の目的

良い人間とは

良い先生、良い授業とは

教育の目的

教育の目的は何でしょうか。それは「良い人間を育てること」です。教育とは、子どもたちが良き人間となって社会を生きていくための力を身につけるために存在していると言えるでしょう。

日本において、教育の目的は教育基本法で制定されていますが、今日お伝えしたいのはもっと大きな話です。

つまり、このグローバル社会で地球という星に住む70億人の人間の一部として「良い人間を育てる」というのはどういうことなのかということです。

(読み飛ばしても構いません。)

日本においては、2006に改定されました教育基本法で「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」と規定されています。

また、アメリカでは、主に「知識の獲得」「政治・市民の一員としての考え」「経済の発展」「社会性の獲得」などが大切にされているようです。

ロサンゼルスの日本人向け情報誌では、「民主主義を守る」が目標であると書かれ、意見をいい、それを聞くことが重んじられていると書いてあります。

良い人間とは

さて、この2024年の地球にとって「良い人間」とはどういった人間でしょうか??

いくつかの指針が考えられると思いますが、今回は以下の2つの指針を用いようと思います。

「良い人間」の規定
  • 1.人間の生の目的を達成すること
  • 2.「悪い人間」ではないということ

1.「人間の生の目的を達成すること」

まず1つ目に「生の目的を達成すること」としました。この生の目的を更に「個人としての生の目的」と「種としての生の目的」の2つの視点から考えたいと思います。

まず、「個人としての生の目的」は、「幸せに生きること」です。「幸せ」の定義も色々あると思いますが、ここでは「マズローの欲求を満たすこと」としてみます。

簡潔に説明すれば「自分の命など基本的なことを守ったうえで、やりたいことをやること」となります。

「好き勝手する」のは自由ですが、その前の段階として自分の命の保証などがあるわけですね。

次に「種としての生の目的」は「種を維持すること」です。それは最もカンタンに考えると子孫を残すことでありますが、現代社会ではそうカンタンではありません。現代における「種を維持すること」として「社会を維持発展させる」という方法があります。

極端な話、「1つ食べれば10日空腹にならない」というりんごを開発した人は、子孫を残すよりも偉大な命の使い方をしたと言えるはずです。また、現代の社会状態がそもそも維持できているのも、いろんな力のおかげです。現状維持も立派な仕事なのです。

東南アジアで自由に生きている人たちも、農業をやっていたり、子どもを育てていたり、なにかしら社会の維持に貢献しているわけですね。

以上からまず1つ目の「人間の生の目的を達成すること」の解となるかと思います。

1.「人間の生の目的を達成すること」とは

個人として「自分の命など基本的なことを守ったうえで、やりたいことをやり」かつ、種として「社会を発展、維持させる」

2.「悪い人間」ではないということ

これはひとえに「他人を害さない」ということになるのではないでしょうか。他人を傷つけるというのは、「良い人間」とは言えないはずです。

しかし、「他人を害さない」で生きることなどできるでしょうか?これも極端な例を出せば、AさんとBさんが仕事の面接を受けて、Aさんが合格、Bさんが不合格となった場合、もしAさんがいなければ、Bさんは合格したかもしれません。また、会社の人がBさんを不合格にするわけですが、これは害しているということにならないのでしょうか。

と、まあ、こんな事を言いだしたらきりがないわけですが、しかしここまで繊細にならずとも、似たようなことは大なり小なり起きていると考えられます。SNSで発したなんとなくの発言が、誰かを傷つけることもあります。

こういった相手の気持ちにまで想像が及ぶかどうか、相手の気持ちの可能性を考慮して生きていくことができるかというのも悪い人間ではないためには重要だと考えます。

2.「悪い人間ではない」とは

他人を害さない、害することになる可能性にまで考慮が及ぶこと

良い先生、良い授業とは

さて、これまでの話を踏まえると、良い先生とは、以上のような観点から子どものロールモデルとなる人間であること、そして良い授業とは、このような人間を育てることに繋がる授業であるということになるでしょう。

こう考えると冒頭のメモで紹介した教育基本法「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」というのと結果的にマッチしているように思います。

「人格の完成、心身ともに健康な国民」というのは、他人を害さず、自分の生命の基本を維持できる国民であること。「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」という部分は社会の維持ができる人間であるということ。しかし、ここで抜け落ちているのは、一番最初に見た、「やりたいことをやること」という部分です。

そもそもの教育の存在意義は社会の基盤を整えることです。したがって、学校教育で教えられるのは、「不幸にならない術」であり、「幸福になる方法」ではないのかもしれません。

まとめ

いかがですかね。なんだか自分としてもまとまっているかどうか。

結局適当でいいじゃん!なんでもいいじゃん!やりたいことやったらいいじゃん!というのは、ハイリスクハイリターンな道であるから、「不幸にならない」ための学校では教えないのかもしれないと思いました。

また、考えが変わったら追記していこうと思います!

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